「そうだ、トロちゃんに電話してみましょうよ」
話題が変わったとき、シャインさんが思い出したように言ってきた。
朝の喫茶店で電話しなかったのは、トロねえが休日は昼まで寝ているかららしい。
電話を掛け、まずはシャインさんが話し、すぐに替わってくれた。
携帯を受け取るといきなり聞こえてきたのは、トロねえの不気味な笑い声だった。
『うひゃひゃひゃひゃ! カツオ、うひゃひゃひゃひゃ!』
「うわっ、トロねえ、やっぱ声低っ!」
僕はびびってついそんな言葉を叫んだ。
『うひゃひゃ! ほっとけ。こんな声じゃ。悪かったな。うひゃひゃひゃひゃ!』
トロねえはなにがそんなに面白いのかというくらいに大笑いしている。
「あー、さっきサリーちゃんにさ、トロねえと声似てるなんて言っちゃったけど、やっぱ本物は全然違うわ。めちゃ低いわ」
『なにー!? サリーちゃんと話したのか? 『リスでリス~』なんて言ってたか? うひゃひゃ。んでシャインちゃんはどうや? 綺麗やろ? ホレとらんか、カツオ?』
「うん。トロねえとは全く人種が違う」
『あんだとー! あー悔し。めっさ悔し』
「ちゃった。人種どころじゃなくて、もう生物種からして違うな」
『うひゃひゃひゃひゃひゃひゃ! 悔し。憶えてろ、このケツオのくせに。でもシャインちゃんもな、ちょいと怖い話で脅かしたってみ。絶対『ティンコいじり』って叫びだすで。もー絶対叫ぶわ』
とめどなくしゃべり続けるトロねえと話していては大変なことになるので、このあたりで適当にあしらって、携帯をシャインさんに返した。
「じゃあ、そろそろ出ましょうか。あ、でも私、ちょっとお手洗いに行ってきまーす」
トイレにシャインさんが行っている間に、僕は伝票を持ってキャッシャーに立ち、代金を払った。
また勝手に、今度はおごることに決めたのだ。女性がトイレに行っている間に会計を済ませるなんて、なんだかデートのセオリー通りみたいでちょっとした照れもあったが、一方で、
《あー、俺もずいぶんこんなこと普通にできるようになったんだなあ》
と感慨を持つ部分もあった。もし防大時代に、あの彼女との再会という出会いがなかったのなら、自分はひょっとして、ずっと女性に対して「おくて」なままだったかもしれないと、いまさらながらにあのときを振り返ってみた。
卒業ダンスパーティー会場で、僕は一曲だけ彼女とダンスを踊った。
もうどうでもいいやと思う気持ちに反してそうしたのは、何ヶ月も真面目に練習したダンスを、本番で全く踊らないのがもったいないと感じたからだ。
ほかの参加女性と一緒に会場を歩くことに夢中になっているふりの彼女を、強引に引っ張ってダンスエリアに向かった。
踊りたがらなかった彼女は、全く冷めた表情をして、面白くなさそうに相手を務めた。
「ねえ、なんだかこれ、拍子がルンバじゃないわ」
何度もそう言って、ろくにステップも踏もうとしない彼女を、僕は内心なんてつまらない女だろうと軽蔑しながら、作り笑顔を浮かべて踊った。
それまで防大の男子学生を相手にダンスの練習をしてきた僕にとって、彼女の華奢な体は体重がないほどに軽く、すぐに壊れてしまいそうで、それに対しても不思議な嫌悪が湧いた。
結局、パーティー終了時間の前に彼女は会場を出た。帰りの新幹線に間に合わないと言うのだ。
僕たちは会場を抜け出し、新横浜の駅に向かった。構内でも彼女はしきりと時刻を気にして、改札を通った後は、僕に振り向きもせずに走って行った。
数日後、卒ダンの写真ができてきた。
僕は写真部に属していたので、その仲間が撮った彼女一人の写真も二枚手渡された。
一枚を自分の手元に残し、一枚を彼女に送った。写真はほしいと彼女が言っていたからだ。
少し迷って書いた手紙も同封した。
「あの日、君がとった態度は男の自尊心を傷つけるものだ。君のことを好きだから忠告するが(この好きの意味を勘違いするなよ)、ああいう態度は今後君の人生にとって、不利益になるだろう」
そんな言葉をだらだらと書き連ねた恨み言みたいな手紙だ。
それを投函した後、彼女に電話した。
「もしもし、写真、今送ったからね」
『うん、ありがとう』
彼女の声は明るくて、卒ダンの日とは別人のようで、それがまた僕を腹立たしくさせた。
『あのさ、私――』
「さよなら」
何かを言いかけた彼女の言葉を遮って、僕は冷たい口調で別れを告げて受話器を置いた。
心のどこかではまだ彼女に対しての恋心が残っているのを認識しながら、あんな手紙を書いたことにも、今の電話の自分の態度にも、やるせない嫌悪感を感じていた。
手元に残した写真は見返すこともなく、その後どこかに紛れてなくなってしまった。
あのときを思い出すと、今でも恥ずかしさのあまりに、どうしようもなく苦笑してしまう。
そして彼女には本当に悪いことをしたと思い、反省するのだ。
あれから一度も会っていないが、できたら同窓会とかで会って、謝りたいと思っているくらいだ。
彼女が今までどんな人生を送っていたのか、いい相手と出会って、幸せに暮らしているのか、そんなことが気になってしまう。
たぶんそれはもう恋とは全然関係のない、償いとしての気持ちで。
防大卒業後、僕は日本一周の旅に出て、そこで本当の恋をした。
それもまた思い出すと苦笑いをしたくなるような、不器用な恋だったが、彼女との恋とも呼べない体験に比べれば、遙かにましな、そして幸福な思い出となった。
その後も僕は何度か恋をして、現在まで、一応は幸せと言える人生を過ごしている。
対照的に、彼女がその後ずっと不幸な人生を過ごしていたとしたら、僕はそれを可哀想だと思うし、ほんのわずかながらも自分の責任がある気さえしてしまうのだ。
おそらくそう思うほうが、彼女にとっては不愉快なのであろうが…。
トイレから戻ってきたシャインさんに会計を済ませたと告げると、シャインさんはにこりと笑って、素直におごられることを承知して礼を言ってきた。
そういう態度はとても爽やかで、素敵だなあと思う。
僕たちはビルを出て、線路を渡り、駅前通りに戻った。
ここからまた朝に行った喫茶店に戻らなければならない。実はそこにシャインさんが傘を忘れてきたのだ。
ところが車を駐車してある建物の道向かいまで来ると、とうとう雨粒が落ちてきた。
「雨だね」
「雨ね。でも今までよく降らなくて、よかったわ」
シャインさんは笑顔を見せて、「それじゃあここで」と別れを告げてきた。
二時半まで大丈夫と言っていたからまだ一緒にいられると思っていたのに、それより一時間弱早い。
これから信州まで帰らなければならない僕に気を使ったのか、一緒にいるのに飽きてきたのか、一応言ってみただけなのか、忘れ物を取りに行くのにつき合わせるのが悪いと思ったのか、素早くシャインさんの心をいろいろ想像してみたが、結論を出すことも尋ねてみることもしなかった。
僕は別れを言って道を渡り、立体駐車場の建物に入った。
また少しドキドキしながらコンテナに車を入れ、ボタンを押して、管理人のオヤジのいる階に上がる。
オヤジはチケットを見て、当たり前に「2500円ね」と言ってきた。
たった数時間駐車するだけに、それだけの金を払わなければならないとは!
愕然としながら金を渡して、建物を出ると、そこにシャインさんが待っていてくれた。
「カツオさん、これ」
車に近づいてきて、何か手に持ったものを渡してくる。
千代紙に書いたメッセージみたいな手紙だろうかと、僕は一瞬で思い、反射的に受け取った。
そしてすぐにそうではなくて、裏側にして特殊な三つ折りにした千円札だと認識した。
たとえば二つ折りや四つ折りにした表の札ならばすぐに分かるのに、普段そんな折り方はしないほぼ正方形の裏折りだと、本当に分からないものである。
交通量の多い都会の道で、僕は車を止めたまま返したりもらったりを繰り返すのが嫌で、そのままありがとうと言って受け取って走り出してしまった。
次の信号で止まったときに開いてみると、なんと二千円あった。これでは昼食をおごった意味がないようなものだ。
《あーあ、駐車代もらってきちゃうなんて、俺ってやっぱりカッコ悪いなあ…》
信号が青になり、僕は苦笑いしながら車を発進させた。
フロントガラスに当たる雨粒は次第に多くなり、空は薄暗く灰色になり、シャインさんを車に乗せて家まで送ってあげればよかったと悔やんだ。
だけど雨の中を一人歩くシャインさんの姿は、きっと強くて美しいのだろうと、僕は東京の街を抜け出す方向に車を走らせながら想像した。