トロねえのイメージその三。
大阪迷子
朝、またメールの着信音がした。もちろんトロねえからだ。
『凍死した?』と一言だけ。
昨夜はトロねえに会えた興奮からか、布団から漂うスパイシーなトロねえの加齢臭ならぬカレー臭のせいか、全く寝付けないでいたのだが、気づくとすっかり明るい時刻になっていた。
十時ごろの待ち合わせということで、公園の路肩駐車で待っていると、前方から背の高い黒いシルエットの女が、奇妙にゆらゆらと近づいてくるのが見えた。
黒いダウンジャケットに濃いデニムを穿いた黒髪の姿は、確かにブロガーたちの噂どおり、『千と千尋の神隠し』のカオナシを想起させる。
「うひひ。今日はデートやな」
今日はちゃんとおいらの顔を見たトロねえはそう挨拶して、助手席のドアを開けた。
座席には運転中になめるビタミンのど飴の小袋が転がっていて、それを見つけたトロねえは素早く拾い上げて座りながらワメイタ。
「あっ、飴ちゃんやん! なんでくれひんの? 飴ちゃんはくれるもんやで!」
あげないともなんとも言っていないのに、一人で騒いだかと思うと、すぐに袋を破って口に放り込んでいる。
「で、どこ行くんやっけ?」
おいらはエンジンを掛けて尋ねた。昨晩からすっかり大阪弁がうつって、もはや自然に出てくるようになっていた。
「最初は区役所や。取りに行くもんあるし、つきあってーや。道案内は姉ちゃんに任しとき」
のど飴の効果か、トロねえの声は昨日ほど低くなかった。目も今日はちゃんと両方見えている。
美人と言えば美人だし、ちょっと間抜けなおもろい顔と言えばそうだ。
近頃老けてきたとブログの記事でボヤいていたが、充分実年齢より若く見えるのは間違いない。
こいつの体からはカレーの臭いがするんかと、こっそり鼻を近づけてみたがそんなこともない。
とにかくそんなトロねえの言葉を信用して、カーナビは取り外して出発する。
ところがしばらく走ると、「道が分からん」と言い出した。
「チャリなら分かるんやけどな…。チャリなら任せとき、バリバリ走るで! でも車やとなんでか道に迷うわ。
なんせ十年間ペーパードライバーやからな!」
おかしな自慢をしながら、トロねえはきょろきょろと辺りを見回した。
「たぶんあっちや!」
そうして何度もたぶんを連発して、少し迷ったすえにどうにか区役所に到着する。
おいらが役所内を見学している間に、トロねえは自分の用事を済ませてきたが、
「ここでは取れんかった」と残念そうに報告してきた。
旦那だかネコだかの、印鑑証明だか戸籍謄本だかをもらいたかったらしい。
「ほな次はデパートや。この近くやねん」
再び車に乗ってデパートを目指したが、案の定またトロねえは道が分からんと騒ぎ出した。
「いっつもチャリで行くとこやのになあ。なんで車やと分からんのやろ?」
いかにも不思議そうに首をひねっている。首をひねるたびに、吸盤で額につけた蛇が揺れる。
昔ふーすけからもらった50センチほどの蛇のぬいぐるみだ。
助手席の補助グリップに巻き付けてあるのをほどいて、そのあごについている吸盤を自分のデコに貼り付けているのである。
つまり顔の真ん中に、カールした蛇がぶら下がった状態だ。
「そういや高校んとき、おもちゃ屋でおんなじようにぬいぐるみの吸盤デコにつけたまま店ん中で遊んでたことあってな。
そん時はペンギンや! ずーっとペンギンつけたまま買いもんしとったんやけど、帰るとき取れんくなってもうて!」
売り物のぬいぐるみを額につけて店内をうろうろする女子高生は、日本全国探してもまずいないだろうと思いながら続きを聞く。
「ほんまぜんっぜん取れんくて、友達三人がかりでもダメでな、このまま取れんかったら帰れ~ん思ってもう必死や!
んで泣きながら店員さんに取ってもらったわ。吸盤の跡がデコの真ん中にぽーんと真っ赤に残って、めっさ恥ずかしかったでえ」
いったいどれだけツルスベのデコをしているのか、トロねえは脅威の吸着力を自慢した。
結局、いつも行くデパートは通り過ぎてしまったらしく、カーナビを使って、少し遠い別のデパートに向かった。
幸いに蛇の吸盤は劣化していたので、簡単に外すことができたが、逆にここまでずっとくっついていたことが不思議だ。
立体駐車場に車を止め、歩き出すと、今度はデパートの建物がどこにあるか分からないと慌てだした。
駐車場はデパートの敷地内である。だが笑ったおいらも、本当にデパートがどこにあるのか分からなかった。
警備員がいたので、尋ねてみろと言ってみる。
「それは恥ずかしくてようせんわ」
確かに、駐車場で迷子になっている大人二人はかなり格好悪い。
しばらく駐車場内をうろついて、やっと林立するビルの中からデパートを見つけ、入ることができたが、今度は同じ場所から出てこられるかを二人して心配した。
「まかせとき! 姉ちゃん、必ずデパートの中でも迷うんや。おんなじ場所から出られたことなんかあらへんで!」
トロねえはまたも意味不明の自慢をして、売り場内を浮かれる足取りで歩き出した。