連載十年後の解説

トロねえに実際会って、『トロねえ物語』をブログに連載したときから、およそ十年になる。

そのYAHOO!ブログが、この年末(2019年12月15日)にサービスを終了するらしい。

つまり僕が十三年間書き溜めてきた記事が、その日消えてしまうわけである。

 

ブログを始めた十三年前、僕はインターネット「ド初心者」で、全くブログのシステムが分かっておらず、適当に行きついた知らない女のブログの「お気に入り」ボタンを意味も分からずクリックしたのだった。

するとすぐ「ゲストブック」に、その女からお礼の書き込みが入った。

 

  やった!! ゲスブ一番のり~~☆

  お気に入りありがとでス→(謎のぬいぐるみ?のイラスト)

  また遊びにおいで~~!!仲良くしようね~~!!

 

これで僕は「お気に入り」を押すと相手に分かってしまう仕組みと、ゲストブックの意味を理解した。

この女がトロねえだった。

 

二、三度コメントをやり取りすると、トロねえはなぜかいきなり僕を「弟」と呼び始めた。どうやら年下だと勘違いしたためらしいが、誰でも彼でも弟だとか妹だとか言っていないのを見ると、何か特別な感情を抱いたようだ。僕のほうも不思議とトロねえを素直に「姉」と呼ぶ気持ちになったのを考えると、最初からある種の波長が合ったのだろう。

 

以降、トロねえとのネット上の交流が始まったが、それが僕のブログの雰囲気を決定したと言っていい。

そもそも僕がブログを始めた理由は、小説を売るためである。まずは「小説家」として認知してほしかったから、小説家らしくクールに知的に、つまり「すました感じで」ブログ読者たちに対応していきたかったのだが、そんな目論見はトロねえによって見事粉砕された。僕のコメントは次第に相手かまわず丁寧語からタメ口になり、真面目な雰囲気は消えて冗談ばかりになった。結果、バイク乗りも旅好きも読書家たちも大して集まらず、ブログ読者のメイン層は若い主婦たちだった。

 

しかしこの「一般主婦」たちとの交流は、実に楽しかった。皆個性的で明るくて、そして意外にも僕のする野宿旅に対して興味津々だった。全ての主婦たちには旅願望があるのか? と疑ったほどである。

ブログ全盛期だった数年間、僕は数多くの女性たちとコメントで交流しながら、バーチャルの人生最モテ期を楽しんだ。まさに仕事などそっちのけで、1円の収入にもならないブログ記事を書くことに人生を費やしていたものだった。

もっとも彼女たちは僕の小説の一番の読者でもあり、感想を記事にしてくれたりもした。実際にバイク旅をする男たちの感想などよりもよほど僕が読み取って感じてほしい部分を理解しており、複雑な気持ちすらするほどだった。

 

そういうところは、むしろ旅をするしないではなく、読者の人生における「憧れの対象」に依存するのかもしれない。あるいは男は僕の小説を旅行記として読み、女は恋愛小説として読む違いかもしれない。

一般的に「男は空想的で、女は現実的だ」と言われるが、僕が感じたのは全く逆である。そしてブログの性質上か、コメントのやり取りで楽しかったのは圧倒的に男よりも女で、冗談と真剣の違いをよく理解するのも女だった。時に僕はあえて厳しい意見を相手にぶつけることもあったが、そこからきちんとした論議に発展するのは女ばかりで、男は厳しい意見を言った途端に交流が途絶えた。丁寧語に対してタメ口で返信しただけで二度と来なかった男もいる。

 

結局、YAHOO!ブログを通じて人間的魅力を感じた大多数は女性たちだった。中には驚くほどの文章力で記事を書き、《少なくともブログの記事に関しては、自分にはこれほど面白いものは書けない》と思わせる女性もいた。その筆頭がトロねえだった。その面白さはお笑い芸人の比ではない。いったいどんな頭の構造をしていたら、これほど面白い行動をこれほど簡潔な文章にできるのだろうかと、小説を書く人間としては爪の垢をもらいたいほどだった。

 

そんなトロねえだったが、次第に投稿が減っていき、やがて一年に一度投稿があるかないかの状態になってしまった。思えばトロねえと大阪で会った頃がトロねえのブログ終末期で、同時にYAHOO!ブログのピークが過ぎて下降していく時期だった。

僕はその後もずっとブログを続けているが、訪問者は加速度的に減っていき、この数年間はブログのための記事を書くこともなく、ただ自分の備忘録やYouTube動画のリンクを投稿するのみになっている。この度のYAHOO!ブログサービス終了は、すでに終わっていた一つの時代の完全なる幕引きでしかない。

 

それにしても、トロねえとのブログでの出会いから十三年、大阪で会ったときから十年である。

思い出すたびに笑いが込み上げてくる一方で、わずかばかりの切なさも感じてしまう。

自分の人生の実生活圏の中に、こんなに面白い女がいたならどれだけ人生が楽しかっただろうと思いながら助手席のトロねえを見た気持ちは、出会えた喜びと虚しさ両方に満たされていた。

高校時代にクラスメートだったら? 大学のサークル仲間だったら? 旅の中で同じ旅人として出会っていたら? 

ありえない空想でも、それを考えずにはいられなかった。僕はトロねえという存在を得たのと同時に、トロねえという存在を失っていた気持ちがしていたのだ。

 

さて、『トロねえ物語』に対するトロねえ本人の感想だが、「自分のことやのになぜか羨ましく思ったり」「物語の中のトロねえをすごく好きになれた」「現実の二人とは別に、物語の二人が存在してて」 「その二人は今でも大阪城公園を歩いてる」「仕事帰りに大阪城の横を通ると、あの二人が歩いてるような気がするねん」といった感じのものだ。

これらが変な感想ではないと僕は感じる。つまり、物語中のトロねえは僕という人間が見て感じたトロねえであって、トロねえ本人の感じている自分とは別の存在だ。いかに事実のみを描いたとはいえ、その事実は抽出されたものであり、僕の主観が込められたものであり、無意識的にも意識的にも理想が混じったものかもしれない。だがこれは全ての人間関係の中に言えることだろう。

そして『トロねえ物語』という一つの完結した世界の中で、僕本人もまた現実の僕とは少し違った僕=おいらとして存在しているのを、トロねえは理解しているのだろう。

 

トロねえとはあの後、およそ五年後に再会している。現在まで会ったのはその二度だけである。ブログのゲストブックを使ってやり取りするのも、年に数度程度に減った。ほとんどが僕からのアプローチで、トロねえのほうから来ることはない。

一方でトロねえは年一度くらいの頻度で僕のブログにやってきて、『トロねえ物語』を読んでいるらしい。

物語に描かれた二人の間にあるのは、姉弟的な思慕や相互憧憬であるが、ひょっとしたらもっと別の感情が隠れているかもしれない。あの大阪城公園で見上げた星も見えない夜空の先には、確実に星がきらめいているように、本人たちですら気づいていない気持ちの奥には、あの夜ほんの微かに見えそうだったものが、光り輝いているのかもしれない。

そんなことを想像しながら、僕もまた年に一度くらいの頻度で、自分の書いた『トロねえ物語』を読み返すのである。

 

 

                                        2019年5月9日