トロねえ物語。最終話

トロねえと大阪城天守閣。

この夜は夢か幻か

 

「ところでさ、屋根の天辺についてるあれ、金のシャチホコ?」

おいらは堀を越して遠く見えている大阪城天守閣に目を向けて、トロねえに訊いてみた。

「金のシャチホコは、確か名古屋やろ?」

「そうだけど、じゃあ大阪城のは? あれはシャチホコじゃないん? 今はクリスマスが近いから、金の長靴か?

さあ! あそこに君にあげるプレゼントが詰まっているよ。取りに行っておいで!」

ふざけてバカップル男の演技をすると、トロねえは馬鹿にしてくると思いきや、

「わあー。それ、ロマンチックやな! さすが小説家のカツオ、ええこと考えるわ!」

と感心してきた。いったいこんなアホ話のどこがロマンティックなのか、首をかしげてしまう。

 

かなり遠くに見えていた天守閣も、堀に架けられた橋を渡ると、ぐっと近づいてくる。

トロねえは夜のとばりに包まれた石垣の通路にできた影に目を走らせて、ふと思い出したように訊いてきた。

「そういえばカツオのブログに記事あったやんな。ダムの…。あれ、めっちゃ怖かったよな。カツオって霊感あるん?」

「ないよ。でもあの時は何か、近づいたらダメだって直感みたいなのが言ってきたから」

あるダム公園で野宿しようとしたときに、その一角だけが異様な暗さになっており、興味を持って近づいたが、なぜか言いようのない恐怖を感じてその場から離れた。翌朝確かめてみると、そこにはダム建設で犠牲になった人たちの慰霊碑があった、という話だ。

「そういうのを霊感って言うんとちゃうの?」

「さあ? 違うんじゃないかな」

石積みの城壁を回るように階段を上って、門をくぐる。

橋を渡ってからは、誰も歩いたり走ったりしている人の姿はない。

「もう一つだけ旅の夜で怖かったのは、マッターホルンの満月の夜に、白い虹をくぐろうとしたときだな。

普通なら、わーすごいって感動するだろ? でもあの時は感動って言うよりも、恐怖のほうが強かったかも。

標高三千メートルの高地の、誰一人いない夜にそんなのを見ちゃうと、さすがに現実を超えてる感じがして」

これもブログの記事に書いたことがある。そのときトロねえはコメントに、こう入れてくれていた。

『こんど姉ちゃんも行ったとき一緒にくぐってみようや!!』

それを憶えているか確かめようかと思ったが、ちょっと無粋な感じがしたのでやめ、別のことを切り出した。

「さっきダムの話したときな…」

「うん? なんや?」

「おいら、背中がちょっとぞくりとしたわ」

ぽつりと言うと、トロねえはいきなり両腕を振り回しながら、後ろを振り返って大声で騒いだ。

「うわー! ティンコいじり! ティンコいじり! ティンコいじり! うわー! ごめんなさい~!

うわああ! 来ないでえええ!」

アホなことを言うとお化けがやってこないと思ったのか、そしてアホなことを言ったおかげで祟られると思ったのか、トロねえはその後も腕をバタバタさせて腰をグネグネしながら、奇妙な叫び声を上げ続けた。

《こんな能天気な女は、きっと幽霊もあきれて取り憑かないだろう…》

おいらは微笑ましくトロねえを見守った。

 

そこから天守閣広場への最後の石段を上ると、ライトアップされた木々が見えた。

「わっ。あれ、みたいに見えへんか? なあ、桜ちゃうやんな?」

トロねえの言うとおり、一本の木が満開の桜に見える。

一瞬、温暖化の影響による狂い咲きかと思ったが、いくらなんでもこんな寒い日が続く中での満開はありえないだろう。

やがてそれは単にライトの加減で枯葉が薄桃色に見えていただけだと分かったが、たとえ錯覚にしろ、二人がこうして実際に会えたことへの祝福なのじゃないだろうかと考え、一人心の中で満足してみた。

一方トロねえはすでに枯木への興味をなくして、目前にそびえ立つ天守閣に目を見張っていた。

「わあ。ここまで来ると、綺麗に見えるやんなあ」

遠目では派手すぎておかしかった天守閣も、なるほどこの距離で見上げると少々感動的だ。

さらに広場を進んで、一軒の売店の前まで行く。その周囲だけには十数名の老若男女がうろついており、野良猫たちも数匹うろついていたが、ここの猫たちはおいらが近づくとさっさと逃げて行った。

せっかく二人だけで大阪城を占拠しているかと思っていたのに、ちょっと興ざめして、元の途を引き返す。

 

再び他人の気配がなくなった天守閣の真下で、トロねえが石垣を見上げて笑った。

「カツオ登れるんちゃう? 天辺の金の靴下にプレゼントが詰まってるか、見てきてや」

長靴から靴下に変わってしまったようだが、おいらはすぐさま石垣に取り付いて、三、四メートルほど登った。

「おわっ! さすがカツオや! でも見つかるとやばいで! 捕まるで! 早よ降りたほうがええで!」

自分でけしかけたくせに、あせって言ってくる。

「あっ、でもその前に写真撮ったるわ。ちょっとそのままで動くなや」

携帯を構えて写真を撮るトロねえと、ポーズを決めるおいら。

「おっしゃ! ええ写真が撮れたわ。うひゃひゃ。ほな早よ降りてき。やー、あわてちゃあかん。気いつけてな」

確かに登るのに比べて、降りるほうが難しい。石垣の隙間の足場をトロねえに指示されながら、慎重に降りる。

「うひゃひゃっ。ええ記念やな。カツオが大阪城の石垣登ったこと、ブログの記事にしたろ。

タイトルはやっぱ、『ケツオのくせに』やな」

見つかると捕まるとかやばいとか言っていたくせに、大々的に発表する気らしい。

 

石垣の回廊を下り、橋を渡り、掘を右手にして戻っていく。

先ほど懐いてきた黒猫はもういなかった。

たまにジョギングの人が通り過ぎていくが、都会の喧騒は遙かに遠く、二人は新鮮な感じのする冷たい空気に顔と手をさらして、さほど頻繁に言葉を交わすわけでもなく歩き続けた。

ところがそのうちに、風に運ばれてある臭いが漂ってきた。そう、まるでうんこのような臭い…。

「トロねえ、うんこんだのか?」

トロねえといえば、すなわちうんこである。

「今日は双子のうんこを産んだ」とか、「コンビニのトイレでうんこしてたら、知らん人にドア開けられた~!」とか、「また海岸でうんこ踏んでもうた」とか、とにかくブログのネタにうんこが多い。

「ちゃうわい! こりゃ銀杏の臭いじゃ!」

これでしばらくは騒がしくなったが、林の小路に折れると、また少し会話が途切れた。

けれどその無言は心地よい無言で、おいらは駐車場がもっとずっと遠く離れていればいいのにと考えていた。

「ああ、なんや今日のことは、みたいやわ」

それまでの口調と違って、トロねえが急に静かにそんな言葉をつぶやいた。

「今日こうやってカツオと歩いたことな、きっと三年くらい経ったら、あれは本当にあったことなのか、夢だったのか、どっちだったやろうって思うようになるんやないかな? カツオがいきなり来て、こうして一緒に大阪城の夜の公園歩いて、ほんでまた帰っていくやろ?」

おいらはちらりと目を向けてみたが、トロねえは木々の隙間の、星も見えない夜空を見上げていた。

「きっと思い出して、夢か現実か迷うような気持ちになるんやと思うわ」

トロねえの口調は満足気だった。おいらはどう応えようか少し迷った。

いつものように「さすが寝ボケ癖のある姉だな!」とからかおうか、それとも「姉ちゃん、手をつなごうか」と手を差し出そうか。

どちらも言わずにいると、トロねえもまた無言で、けれども今度は顔を向けて微笑みかけてきた。

《自分にとっても、夢のような思い出になるのかな?》

特別な夜と言うには、あまりにもささやかな、小さな出来事かもしれない。夜の公園を二人で歩き、アホ話に笑ったり、騒いだりして、手をつなぐわけでもなく、もちろんそれ以上のことなど何もなく、ただ寒風に身をさらしながら、一緒に過ごしただけの時間。

《おいらにとっても、きっと素敵な思い出になるよ。だけどそれは夢じゃなくて、間違いなく本当にあったこととして》

心の中で応えて、一瞬立ち止まりかけた足を進めた。

トロねえも返事を求めるわけではなく、また歩き出した。

右側に並んだトロねえの左手を見てみる。夜風にさらされた白い手は冷たそうだったが、足取りは軽く、背筋を立てて歩くその姿は、巡り会えたことを感謝したくなるような、一人の素敵な女性だった。

《おいらの姉ちゃん、か…》

血も繋がっていないし、年齢だって同い年だ。だけどそう呼べることを、おいらは幸福に思った。

 

                                                     おわり。