喫茶店で読者と向かい合い、渡された自分の本にサインする、という行為は、なんだかいっぱしの有名作家にでもなった気分だった。
「うわー。サイン。うふふ、生カツオさんの生サイン」
サインペンを走らせる僕を眺めて、シャインさんは拍手をしそうな勢いで喜んでいる。
「あ、今日の日付も入れなくちゃね」
「あっ、日付も入れて!」
「ふーすけも描いておこうか」
「ふーすけも、描いて」
一見単純なふーすけの顔だが、実はうまく描くのはけっこう難しいので、ここで失敗したら大変だと思いながら、それでもなんとか納得のいく絵を描いて渡す。
「これ、カツオさんが有名になったら、すごい価値になるわね」
「まさか売るつもりじゃ…」
「うふ。ヤフーのオークションよ」
喫茶店でモーニングセットを頼むなんて、僕の人生で二度目じゃないだろうかと考えた。
一度目は、初デートの相手とだった。
防大の卒業ダンスパーティーのパートナーとして、中学高校と一緒だった同級生の女子を誘ったのだ。
僕の高校は進学校で、二年生からは男子だけの理系クラス。防大は当時女子学生を採用しておらず、すなわち男だけの環境で青春時代を過ごしてきた僕は、全くの「おくて」だった。
もっとも防大の学生など大半は勉強一筋に高校時代を過ごしてきた「もやしっ子」であり、防大である程度体を鍛えられてからも、女性にはまるで弱く、ナンパや合コンで彼女を作っているのは色気づいた一部の学生のみだった。
少なからぬ学生が、浦安のひなびた店の年増相手に、金で童貞を捨てていたのである。
「卒ダン」は僕にとって苦い思い出となった。彼女のできない学生には、他大生の女子を斡旋であてがってくれるシステムがあったのだが(これは周囲の女子大学生からも人気のシステムだった)、モテもしないくせに変にプライドだけは高かった僕は、防大に頼らずに自分でパートナーを見つけることにしたのだった。
そう、前述したように、中高同級生だった女子。まあ中一のときからちょっとは気のある子だったし、高校卒業後五年ぶりに地元で再会したときは美人になっていて、悪い相手ではないと思えた。
そうして卒ダン当日、彼女を招いた横浜は、雪景色だった。
パーティが始まるのは夕方だから、昼間は中華街で食事をしようとプランを立てていた僕は、昨夜の雪が積もる海辺の公園を散歩したり、中華街までの道を歩いたりして、午前の二時間くらいを使った。
《雪の卒業ダンスパーティー、そしてデートなんて、ロマンチックじゃないか!》
僕は内心一人喜んでいたのだが、彼女は次第に不機嫌で無口になっていった。
「寒い」というのが原因だった。
「本当にどこでもいいから早く店に入ろうよ、寒いのよ!」
不満を言った彼女に、僕はちょっと腹を立てた。少しばかり寒いくらいで、いったいなんだというのだ。
行こうと思っていた格式のある店には、あと一分も歩けば着くことができたのだが、その場にあったひどくみすぼらしい店に入った。
店内は暖房が効いておらず、僕は室温を上げてくれと言ったが、下品を絵に描いたような店のおばさんは、「うちには暖房がないから」と平然としていた。
席に着くと、彼女がまた文句を続けてきた。寒いのは嫌いだって前に言ったのに、どうしてこんなに寒い日を延々と歩かせたのだ、と言ってくるのだ。
隣の席には熟年女性の二人組がいて、店に入ったときから僕たちを興味深そうにチラ見している。
こんな差し向かいで文句を言われているのが格好悪くて、僕は彼女の言葉を笑って受け流していた。
「笑うな!」
突然彼女が怒鳴り、場の雰囲気は最悪になった。しばらく無言でいると料理が出てきたが、それはまずくて冷たくて、金をもらっても食べたくないようなものだった。
一方彼女のほうはと言うと、「私は何でもおいしく食べれるから」と、急に機嫌を直していたのだが、そんな味音痴の彼女がもし自分の恋人になったら、どんなまずいものを食べさせられるか分かったものじゃないと想像した僕は、ますます辟易した気持ちになった。
夕刻、卒ダン会場の新高輪プリンスホテル飛天の間に到着すると、すでにドレスで着飾った女性たちや、防大の制服姿の学生たちが大勢いた。生バンド演奏が奏でられている豪華な社交ダンスパーティーの雰囲気に、彼女はまた機嫌を良くして笑顔を見せ、更衣室へと向かった。僕も私服から防大の制服へと着替えて、ドレスに着替え終わった彼女と会場で合流した。
何百人といる女性たちの中で、彼女はたぶん指折りに美人だったが、僕の気持ちはもうすっかり冷めていた。
《もうどうだっていいや》
本当の意味での初恋の相手になるかもしれないと思っていた彼女のことを、僕はまるで知らない事実に今日、気がついた。
恋だと思っていたのは自分の勝手な空想で、僕は相手にではなく、ただ状況に酔っていただけだった。
防大という特殊に閉ざされた世界。全てが義務で、とっぴな行動など何一つ許されない疑わしい青春の中で、「一般人」である彼女と接することができる。
それだけのことに胸を高鳴らせていただけだったのだ。